生きづらさと付き合う

エッセイ

 夏目漱石の小説『草枕』の冒頭にこのようなことが書かれています。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)されば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

 私は人生に行き詰ったとき、社会に疲れてしまったときなどにこの文章を思い出します。
 そしてこう続きます。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶(なお)住みにくかろう。

 つまり、どこへ行ったって生きづらいのだ、と私は解釈する。

 先日退職した会社でも社長に言われた。パワハラを訴えて辞めたのだけど、社長は「気持ちはわかるけど、どこに行ってもそういうことはあるよ。がんばんな」と。

 それは、間違っていない。私の経験則からもそれは事実だ。どこに言ってもイヤな人と言うのはいる。

 私の今までの人生を振り返って見ると、それらすべてから「逃げて」きた。

 そのことを否定するつもりはないけれど、どこかで私は他人との「折り合い」をつけなければいけなかったのかもしれない。

 でも、もう退職した事実は変わらないし、私が受けた傷も残ったままだ。

 私は中学生の時分からこの社会に対して「生きづらさ」を感じてきました。社会人になってからは、なおさらです。

 生きづらさの正体とはいったい何なのだろうと考えたりもします。

 おそらくそれは「他人」なのだと思います。

 他人から受けるストレスが一番の原因なのではないでしょうか。

 けれど、夏目漱石が言うように、人の世では、どうしても他人と関わらなければならない。

 仮に人の居ない国に行ったとしても、それはそれでなお生きづらさを感じるのではないか、と言っている。

 そしてまた、「他人」を変えることはおよそ不可能に近い。

 変えることができるのは、自分自身と、そして、自分自身で選ぶ「環境」だけだと思います。

 嫌な人から「逃げた」私は、決して悪くはないと思います。自分に適した環境を選んだまでのことです。

 けれど、これから先、必ずイヤな人というのは出てくるでしょう。

 イヤな人とは、無理に距離を縮めることはしなくていい。無理に仲良くしようと思わなくていい。適度な距離感を持って、自分を守ることが大切なのだと思います。

 ここまで書いてきて、「ずいぶんと当たり前のことを言っているな」と思われた方も多いかもしれません。

 そうです。当たり前のことなんです。でも、「あたりまえ」こそが、一番難しい。

 当たり前の生活。当たり前の人間。当たり前の姿勢。当たり前の態度。当たり前の人間関係の構築。

 当たり前、と言う言葉を「普通」と言えることも出来ます。普通と言うことの定義はさておき、「普通」でいることが、一番難しいのではないでしょうか。

 難しいのだから、それが出来ないからといって、自分を否定する必要はない、と、私は思います。

 生きづらさは、苦しい。

 でも、「生きづらくてもいいじゃないか」と思えたりします。

 かの有名な文豪夏目漱石だって、生きづらさを感じていたのだから、凡人である私たちが器用にこの社会を立ち振る舞えるわけがありません。

 いいんです。生きづらくて。

 そういうことを考えた朝でした。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました